殺人と自己責任

(以下は、はてながサーバ移転で止まってる間、Mixiに書いた日記です。)

イラクの人質事件について、いたるところで自己責任という言葉を見かける。つまり、危険な場所に行ったのは自分の責任なのだから暴力的な死をも甘受せよ、ということなんだろうと思う。

でも、結果として殺人を認めるような「責任」が存在していいんだろうか?

危険な活動に際して、本人がリスクを認識し覚悟を決めるということはあるかもしれない。けれど、それは本人の内的な問題でしかないと思う。殺されかけている人に向かって他人が「責任」という言葉で論理的に何かを説明しようとするのは、根本的に何か間違っている気がする。責任という社会的な概念を、反社会的な暴力と同じステージに乗せてはいけないのではないか。

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責任という言葉が辞書の通りに使われているとしたら、

(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。

(Goo 「大辞林 第二版」)

殺されるべき「義務」がある、あるいは「償い」として殺されなければならない、なんて陰惨な話になってしまいます。「自己責任」も誤用かもしれません。

http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/683/683_04.htm

自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、 人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。
(はてなキーワード「自己責任」より)

自己責任という言葉で何を言おうとしているのか……国の勧告に逆らった「罰」として殺されても仕方がない、ということなんでしょうか。

気が滅入ります……。