暴力の物語と平和の物語

イラク戦争を見ながらずっと考えてきたことのひとつの結論として、暴力を肯定する物語を政治に利用してはいけない、ということがある。

あのまま国連査察を漫然と続けていたら、生者はおろか死者すらも解放されなかったのだ。

(毎日新聞 2003/5/28 「イラク戦争がもたらしたもの 市民の笑顔が語る「自由」」)

「死者が解放される」というのは、生き残った人間が作ったフィクションだ。死人は、生き延びた人間がどうなろうと関知しない。ただ死んでいるだけだ。

戦争を支えているのは、このような暴力を肯定する物語だと思う。こういう物語が解体されないと、戦争は無くならないのではないだろうか。

そして、このような物語を上手に語る人たちが、一方で平和運動の物語性を非難している。まだ人類が体験したことが無い状態を思い描いているのだから、平和運動で語られることがフィクショナルなのは当然なのに。

私たちが最終的に目指すところが平和なのだとしたら、暴力を肯定する物語を語りながら、平和を描く物語を非難するのは、間違った行動だと思う。

平和の物語を語りつつ、現実に必要な行動は何なのかを考えるべきだ。本当に他に選択肢が無く、暴力を行使しなければならないとしたら、それはなぜ「他に選択肢がなくなってしまった」と言えるのかを厳しく問わなければならない。どこで失敗したからそんな羽目になったのかを精査すべきだ。戦争は、失敗の結果であると認めるべきであり、勝利は存在しないことを認めるべきだ。

暴力を肯定する物語を政治に利用してはいけない。暴力は、ファンタジーの中に閉じ込められる必要がある。