ぶんしょうのわかりやすさについて

id:jounoさんとid:achacoさんに言及していただきました。ありがとうございますー。

特殊な関係を結ぶという言い方はきわめて難解ですが、レトリカルな問題を指していると受け取っておきます。

すいません、単にわかりにくい言い方をしてしまっただけです。「特殊な関係を結ぶ」というのは、一つには、禅の公案のことを考えていました。難解であることによって、読み手に悟りを促す、という意味での読み手と書き手の「特殊な関係」です。普通の文章では悟りを促したりできないから特殊、というくらいの意味しかないです。

ついでに文芸のこととして言えば、文学は基本的には難解さを目指して書くことなどありえないと思います。正確に、その事柄を書くことを目指すがゆえに、普通にはない表現になるだけです。

「普通にはない表現」を使うことで、読み手に「普通の表現」では伝わらない何かが伝わるということを指して「特殊な関係」を結ぶという言い方をしました。自覚的に「難解さを利用」することはあるでしょうし、他に言いようがないから選んだ表現が、たまたま読み手にとって難解であることもあるでしょう。

わかりにくさは、伝達の場面だけで介在するわけではないのです。

言い換えれば、たとえ論理的な問題を論じるものであっても、それを宗教や文芸というものと、それほど明確に区別することはできない。逆にいえば、宗教や文学という言い方で切り出された「それ以外」という領域のことをきちんと考えれば、そこで難解さが存在している意味は、事柄そのものに内在しているのであって、「伝達技術、狭義のレトリック」だけにかぎった理由ではありません。

複雑な事柄を正確に記述しようとすると、複雑な文章にしかなり得ないということだと理解しました。しかし、その複雑さは、本当に難解さに直結するんでしょうか。複雑なことを複雑なまま記述しながら、平易な文章を書くことは不可能なのでしょうか。

さて、僕の主張の中心は、論理的な文章で「難解さ」に特権的な価値を認めるのは間違いだ、ということでした。「特権的な価値」というのは「奪うことのできない本質的な何か」というつもりで書きました。つまり、僕は、難解さを

  • 奪うことができる
  • 本質的ではない

ものだと考えているということです。論理的に書かれている文章であれば、より理解しやすいバージョンに書き直せるということです。ただし、文章が適切に書かれている場合、理解しやすいバージョンの全体量は、オリジナルより大きくなります。

それは、例えばハイパーテキストで書かれます。表面のテキストは難解なオリジナルと全く同一です。新しいのは、個々の単語にリンクがついていて、書き手自身による用語集につながっているところです。それは、もとの難解な文章を完全に保ちながら、少しだけわかりやすいバージョンになっています。

あるいは、それぞれのセンテンスに読み手がコメントをつけられるとしましょう。難しいところは質問し、書き手や、先に理解した読み手が答える。書き手は、質問が多いセンテンスの書き直しを試みる。そうやって出来上がる質問や回答まで含んだテキストは、難解な文章の原型を保ちながら、以前よりも理解しやすいバージョンへと変わっていきます。

さらに、たくさんの人が難解なオリジナルの文章とは「似て非なる普及版」をポストできるメディアを考えてみましょう。書き手がポストされた普及版を採点してもいいかもしれません。全部0点てことはないでしょう。輪読なんかに意味があるとしたら、そんなメディアにも意味はあるはずです。「似て非なる普及版」が十分に洗練されていれば、オリジナルから普及版への参照や置き換えが始まるかもしれません。

僕にとって、読み手が怠惰、書き手が怠惰というのはあまり重要でなくて、垂直に起立するような難解なテキストだけをリリースするよりも、ちゃんとスロープ付きユニバーサルデザインにしたほうが読まれる可能性が高いだろうというようなことを考えていました。

id:achaco:20030703さんが書いていますが、僕は先の文章を書いているときに、東浩紀村上春樹を思い浮かべていました。東浩紀を読んでいると、僕みたいな怠惰な読者にも登れるよう、スロープをつけてくれていると感じます。村上春樹少年カフカ』なんかもある種のスロープなのかもしれません。

確かにスロープばかりを登る(僕のような)読み手は怠惰だと思います。しかし、例えばもっと難しい本を読もう!みたいな話にまるでリアリティがないのも事実です。では、どうするのかということだと思います。


あと、山形氏は、わかりやすい文章を書かれているとは思いますけれど、僕は好きではないです。