「簡単」であることの難しさ

ゲームの開発がプラットフォームとMODに分離していくかもしれない、というHALF-LIFE2の話を思い出しました。プラットフォームから作ろうとする日本のゲーム産業はやばいんじゃないか、みたいな話をどこかで読んだような。2chだったかな?

技術の言葉は専門外の人に理解できなくても成果だけを享受できますけれど、思想の言葉はどうなんでしょう。ある程度、厳密さを犠牲にしてでも、専門外の人々に伝えられることが重要だったりするんじゃないでしょうか。

技術の言葉でも、例えばインフォームド・コンセントなんかは、難しい医療技術の話を、精度を落として(と言っていいのかどうかわかりませんが)簡単に説明しようとしますよね。患者も、もっと簡単に言ってくれ、と求めて良いことになっている。

医療は事態が緊急だし、厳密な知識を求めるのには無理があるということでしょう。じゃあいまの社会状況は緊急事態ではないのか、という思いがあります。僕は暴力を振るったり振るわれたりがイヤでたまらないので(というか考えだすと途方にくれてしまう)、状況を理解して対抗できる説得力のある言葉を求めている。厳密な議論にもアクセス可能であってほしいけれど、とりあえず議論されていることを理解するのに、厳密さは不可欠ではないと考えます。

とてもよくわかります。僕もそう思います。

わたしは難解さを、理解するのに手間がかかる、という意味でも理解しています。

ついでにいえば、現代思想の単語という例でもとの文章が示しているように、文章の長さがかぎられている、ということは無視できない要素だと思います。それは、つみかさねられてきた議論の伝統をちゃらにしない、きちんと活用すべきだ、ということでもあるからです。

その通りだと思います。僕の書いた

ただし、文章が適切に書かれている場合、理解しやすいバージョンの全体量は、オリジナルより大きくなります。

は言い過ぎだと思います。そんなの理解しやすいとはいえないですよね。

やさしく書ける場合や、やさしく書く方法について、やさしくなるときにはやさしく書こう、ということについていくら主張されても、

僕自身は、そういう主張を繰り返したつもりではありませんでした。うまく説明できていないかもしれませんが、そこが重要だったのではないです。初めに書いたとおり、難しい文章は難しく書かれる動機がちゃんとあると思っていて、そのこと自体を非難するつもりは全然ないです。

戦略として、簡単に書くことが重要なケースはあるというのが最初に書いた二つの文章の主張でした。たとえ、元の厳密さが失われたり、劣化コピーになってしまっても、理解しやすさを重視すべき場合はあると考えています。それは、凡庸な結論ですけれど、誰にその文章を伝えたいか、ということにかかっているのだと思います。僕は、僕のような読者を意識して書かれた文章を、最初に読みたいです。

「あまり精確じゃないけど、わかりやすい文章」は否定されるべきなのか、読者がそういう文章を求めることはいけないことなのか、というのが僕の疑問です。

id:jouno 『多分、「これで全部じゃないぞ」感をきちんと出していればいいんだとおもいます。あるいは、「本当かなあ」とわざとおもわせるぶぶんをつくる。』

とてもよくわかります。あと、そういう文脈で、読者の姿勢が問題になるのも理解できます。簡単に書かれていることだけを、鵜呑みにしないとか。そういうことはあると思います。

# rishikaw 『一番大事なことは言葉では伝わらないのだと誰かが言ってたような。「一番大事なこと」を伝えきれないということを、どう文章に反映するかってことかなとも。』

僕は、文章が伝えようとする「真実」とか「事柄そのもの」とか「一番大事なこと」については、あまりうまく考えることがでないです。その場その場でどう考えればいいかが違うような気がします。うまく言えないんですけど……。rishikawさんのおっしゃっていること自体はわかる気がするんですが、そこから前に進めなくなってしまうような感じです。要するにわかってないのか……。。


あと、僕の書いた、

一方、論理的な文章において、読み手と書き手が特殊な関係を結ぼうとするのは適切ではありません。

これは取り消したいです。実感と全然違うので……。

難しい文章は、そこで書かれているロジックとは別に、それだけで教育的だったり、信頼できる印象を与えたりします。例えば僕は、id:jounoさんが使う僕にとって「難しい」言葉からいろいろな影響をうけていて、それを重要なことだと感じています。難しい言葉づかいが読者に良い影響を与えること自体は、別に責められる必要はないと思います。