トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』 (ISBN:4326152222)

読もうと思います。

デヴィッド・ロッジ『考える…』 (ISBN:4560047243)には、コウモリになったつもりで小説を書くという話が出てきます。まあまあ面白かった、というくらいにしか覚えていないですけど。

id:mkomiyaさんのいう

「過去の思想家や論文など固有名詞を並べた」だけの「文章」

は役に立つこともあると思います。読者が自分で考えたことがまず先にあって、それがすでに詳しく議論されているとしたらどこなのか、を知る手がかりになるからです。

そのために、過去の業績に目を通すことは大切とは思いますが、
ときにはそれは、「自分が零から考えるべき機会を奪い」
「業績に目を通しただけのことを誇る」という不毛に陥る。

そうですね。

私たちは議論するプロではないので、すでに議論されていることについて何も知らないにもかかわらず、考えてよいし書いていいのだと思う。繰り返し同じことを考えていいし、書いてもいい。その無駄に価値はあると思います。

私たちが今使っているメディア(ウェブ日記やブログ)のこととの関係で言うと、思考や言葉の「効率の悪さ」こそが重要なのではないかという気がしています。まだうまく説明できませんけれど。